VULGAR from illeffects interview

  2019年10月最後の土曜日。歌舞伎町から程近いビルの隙間から漏れてくる、大音量の音楽。更に歩み寄ると路上にはDJブースが置かれていて、奇抜なファッションを纏った強面のDJが、時には踊りだしながら、軽快に曲を繋いでいく。傍らにはFREEのテキーラ・コーナ一もあって、通りすがりの様々な人達がぞろぞろと群がり、皆それぞれ曲に合わせて踊ったりしながらその場の雰囲気を楽しんでいる。

突如として目の当たりにした光景、それがSTREET STYLEのPARTYを主催するクルー “illeffects” だ。今回はクルーの首謀者でもあるDJの “VULGAR” に、これまでの経緯やSTREETでDJをやり続ける思いなど、色々と話を聞いてみた。

Interview,Text: KANE  / Shooted by Great The Kabukicho

 

– DJをやり始めるに至るまでは、どのように音楽と接していたのですか?

小さい時から家ん中ではずーっとJAZZ, FUNKとかROCKが流れてて、自然にそういうの聴いてたすね。

小学生の頃、音楽にハマる前からウーファーが好きで。逗子に米軍の街があるんすけど、そこから爆音で車が出てきたり、横須賀に映画観に行ったりした時、そこら辺の店からドゥーンドゥーンってなってるお店とか車とかあって。「ドゥーンドゥーンやべえ!」みたいな。で、小6ぐらいでそういう黒人のやってるお店でかかってる曲とか、「この曲はなんなんだ?」って聞いて。CDとか見せてくれて教えてくれるだけど、字も読めねえし目でジャケを覚えて。それでCD屋行って何の曲だかを割り出して、レンタルする。でもそんなに金もなかったし、CD屋にCDラジカセ持ってって店の中で聴いてましたね、店の中で聴いて終わり、みたいな。そうやってハマっていきましたね。その頃は “HIP HOP” っていう単語もまだ知らなくて。アルファベットも記号に見えるし。

中2で初めて新品で買ったCDがNASのStillmaticっていうアルバムで。もう嬉しくて、カセットに移して、家に小さいラジカセあったんで、それを自転車に括り付けて走ったりしてましたね。周りは洋楽のHIP HOP聴いてなくて、俺1人で凄い好きだったんすよ。その頃、何でも違法ダウンロードしてCD-Rにしてくれる先輩がいて、夜中にやってたTVのTOP40みたいな番組でチェックした Snoop Doggとか Cypress Hillの曲を先輩のトコ行ってCDに焼いてもらったりして聴いてましたね。周りは俺の事ヤンキーみたいに扱ってたけど、自分ではそう思ってなかったし、喧嘩も好きじゃないし。色んな範囲に友達作りたいと思ってて、他の学校の正門の前行って派手なヤツとか可愛い女の子に話しかけるみたいな。そうやって友達は出来たんだけど、中3のある時期になると急になんか揉めるみたいな。~中と~中のアタマ同士がタイマン、みたいのが始まるんすよ、地元の伝統なのか知らないですけど。仲良かった別の中学のヤツが突然「おいこのヤロー!」ってなって「え?これ何だろう?」みたいな。

– すごい社交的というか、勢いがありますね。

何だったかよく解らないけど、じっとしてらんない、みたいな。そうゆう事も一人でやってたんで。一人で行くか、たまにパシリみたいなヤツ連れていったり。中3の時とか隣の中学でASSASSYN着てるヤツとか、B-BOYファッションしててDS455とか聴いてるヤツとか仲良くなって、DS455もそいつが教えてくれて。カラオケにもあったすね。チャンプロードと平行してCUSTOM LOWRIDINGってゆう雑誌も読んでて、B-BOYファッションはヤン服でもあったすね。中1終わり位からロン毛にしてピアス開けて金髪、太いズボン履いてB-BOYファッション!みたいな。PLAYAZの服とか着て、69とか書いてあって「これイカついべ~!」、「これデカくていいべ~!」みたいな。

高校に入る前に突然チカーノファッションに目覚めて、スキンヘッドにしちゃって、チェックシャツにチノパン、ロークみたいな。その直前まで頭ピンクにしてたんですけど。気合いを入れようって事で。高1の頃友達が横須賀のHIP HOPファッションの店で働いてて、それ経由でHIDEミュージアムでやってたFROSTの来日ライブに行ったんすけど、雑誌で見た事ある日本のラッパーも沢山出てて、その中でも感覚的にPHOBIA OF THUGがカッコ良くて本格的にウェッサイシーンにハマっていきましたね。

その半年後に横浜のBRIDGEでDJ FILLMOREさんのイベントがあって、初めて自分からクラブに行こう!ってなった時で。ちょうどその頃からIDチェックが厳しくなった年で、その時はなんとか入れたんだけど、すげー楽しくて俺もハイになっちゃって。見たことあるアーティストに片っ端に挨拶して。で、次のイベントある時にオープン前から待って、荷物持つの手伝って一緒に中入って。だんだんレコード持ち、みたいになってきて。早く行かなきゃ行けないんですけど、関係者のふりして中に入る、みたいな。そうしないと入れなくて、、そうやってイベントも行きまくってましたね。で、高3くらいかな?クラブでの友達も出来て、そいつらとC-WALKのクルーを3人で組み始めて。1人アタマがいて、俺とタメのヤツもう1人の3人で青ギャングみたいな。その頃はDJ GOさんのイベント行きまくってC-WALKをしまくる、みたいな。LOOSE NIGHTとか。首都高でビール飲みながらバイクで行って。「上げてこー!」みたいな。その流れで「DJやろう!」「DJかっこいい!」ってなっていきましたね。

高校卒業した年に働き始めた頃、ローン組んでターンテーブル買って、DJも皆で練習したりしてたんですけど、20歳になるチョイ前、ある日家に帰ったらターンテーブルとか色々無くなってて、、多分なんか恨みを買って盗まれたんでしょうね。それをクルーのリーダーに電話したらすげえブちぎれられて。「何なんだろこれ?なんか嫌だな、、」ってなって、そこ引き払ってバッくれたんですよ。友達の高円寺の近くの家に転がり込んで、そこで一応身を伏せてる状態だからファッションを変えよう、ってなって「ああいうノリもうんざりだ、こんな服着たくねえ!」って。細身のリーバイスとか履いてロックTとか着て。高円寺っぽい、、そういうノリに急にチェンジして、ハーレーとか欲しいな、みたいな。

– 節目節目でファッション的にも突然変わって行くんですね。

でも、結局どんな格好しててもHIP HOPが好きなんですよね。夏にバッくれて冬にはDJやりてーな、ってなって。その頃はパソコンでDJする事をすげー否定してたんすよ。俺もレコードとCDでやってたし。でもパソコンならすぐ始められる、ってなって。TSUTAYA行ってCD借りてきて入れちゃえばいいんだ、って思った日の夕方にはヨドバシカメラ行ってカード切ってパソコン買って、そのままその足で楽器屋行って、ローン組んでターンテーブルのセットとスクラッチライブを買ってミキサー買って針買って、、一気にまとめてローン。「やったろう!!」と思って。

転がり込んだ家からも数ヶ月で引っ越して練馬に行ったんですよ。練馬なら駐車場も安いし、音楽をやるなら車も欲しい!ていう理由で車も買うんですよ、セフィーロ。その頃はホントにたま~に友達のイベントに出る、みたいな。練馬で暮らし始めてから、またC-WALKやってたクルーの奴らと会わなきゃいけない、っていう話になっちゃって。ちょうどその頃に、部屋の物盗まれた時の犯人を俺が見つけて、そいつを詰める話だったのが、、そいつ不良にチクっちゃって、クルーのヤツのとこに不良から連絡きて、、。結局、俺が話つけに行ったんすけど、色々因縁付けられて。すげえ吹っかけられたり、詰められたりして、、東京居られねえな、めんどくせえ、ってなってまた飛ぶんですよ。

今度は茨城に。そこから茨城は3~4年ですね。機材はあったけど、東京とか遮断されたからどんどん普通の生活になって行って。DJで現場に出れないし曲作りをしよう、ってことでMPCとか買ってみたけど思うように作れなくて。そういうグダグダを3~4年。最初は普通に仕事してたんですけど、ちょうど脱法ハーブが流行り始めてて、脱法ドラッグ屋で雇ってもらって、、気がついたら店長みたいな。そこにDJブースとか持ってきちゃって一日中DJやりながら脱法ドラッグやって、売って、どんどん売り上げを伸ばすみたいな。でも取り締まりがきつくなってきて、お店を畳む羽目になって。この場所をどうする?ってなって、知り合いの彫り師さんのタトゥーショップと、何か俺の店をやる事になって、全然脳も無いんだけど洋服屋をやる、ってなって。でも全然洋服売れなくて。金もないし、、。ちょっとお金入ると脱法ドラッグ買うんですよ。なんかもう最悪で。23~24歳くらいの頃なんすけどどん底、みたいな。その頃世話になってた人が東京で建設業やってて「ウチこいよ」って言われて。内心すげえ嫌だったんだけど、金も無いし背に腹は代えられない、って事で又東京に戻るんですよ。世田谷だったんですけど。

それと同時に、またクラブとかちょいちょい行くようになるんですけど、東京戻って来てもだらしない感じは抜けなくて、脱法パウダーみたいなのハマっちゃてて、、速い系なんすけどヤバいんすよ、あっという間に朝になっちゃう。それで歯も無くなっちゃって。歯溶けちゃって。それでもひたすらやっちゃてて。で、そのうちコソコソやるようになってきちゃって、、。誰にも言わない。周りは気付いてるけど。クラブの中で熱くもないのに、1人だけ汗びっしょりだったり。でも仕事もしんどかったし、脱法系も段々やらなくなって、、気がついたら辞めれて。自然に辞めれましたね。「こんなのダメだ!」ってなって。もう無いすね。

それからちょっとして事故るんですよ、バイクで。膝潰れて足ぐちゃぐちゃに骨折してスネから変な方に曲がって。仕事してたけど、またそこで生活が変わるんですよね。一ヶ月で退院はするんですけど松葉杖で仕事もできないし、急に暇になって。スクーターだったら足折れてても乗れる、っていう事でバイク速攻買って。今も乗ってるヤツなんですけど。それで渋谷とか意味もなく行って、金がマジ無いから座って音楽聴いてる、みたいな。小さいスピーカーで。今も一緒にやってる、MATATABEATとか、もう1人のつるんでたヤツと、何か外でやりたいね、ってなって。最初、渋谷のモアイ像の前でiPhoneに小さいスピーカー繋げてMATATABEATの路上ライブをやろう!って事で自分達で始めたのに、やってみたら全然面白くなくて。俺はただiPhone押してるだけなんすよ。足折れたまんまなんすけど。「これじゃつまんねえし、台も持って行ってDJもやってさ、ブロックパーティーみたいなさ、、」って話して、それで始めたんですよ。まあ暇だったし、MATATABEATもライブするタイミングが無いって状態だったんで。

– それが “illeffects” の始まりなんですね。

俺がDJでトップをはってるクルーで、MATATABEATはラッパー、TMKはパーカッションプレイヤーですね。”illeffects” は悪影響っていう意味で。人から人への悪影響とかじゃなくて、地球規模の温暖化だったり、水質汚染による魚の大量死とかそういう規模の意味なんですよ。気がついたら大変なことに巻き込まれちゃう、みたいな。

 

最初は代々木公園でやり始めたんです。日曜日にロカビリーの人達がやってる場所があって、その場所で半年くらい続けた頃、2015-2016の年越し間近だったんすけど「カウントダウンやっちゃおうよ!」ってなって。それまで客が1人とか2人しかいない中でやってたんで、何も期待してなかったんですよ。で、23:30くらいから渋谷のドンキーの前あたりで始めてみたら、どんどん人が増えて、、。いつもは自分のテンションも低かったから、曲のテンションも低かったんですよ。でもその時はすげーハッピーな状態だったから、それまで自分でもやった事ないような、色んなジャンルの俺の中でのアゲ曲を混ぜて、朝の4時くらいまでやって。遂には車道にまで人が溢れるくらいになって。「地球!」みたいな。「全人種いる!」みたいな。老若男女いて、横のホームレスはインド人と一緒に踊ってるし、目の前で土方の恰好したフィリピン人がブース倒れないように見張ってくれてるし。全部いて。とにかくいろんなジャンルがいるんですよ。

そこから何か変わっちゃって。いきなしアゲる、みたいな。その時に今のスタイルを確立しましたね。踊りながらDJするし。それまでは金髪だったんですけど、、カウントダウンの時からですよ、初音ミクの髪の色いいな、ってなって髪の毛も緑色にして。見た目もカッコ良くしてかなきゃ、ってことで年開けてすぐDJブース買って、小さいテーブルじゃひっくり返っちゃうし。スピーカーも地面においてたんけど、台に置こうってなったり、、。それをやりだして何となく今の形になってきて。

その頃は日曜日の夕方くらいから、渋谷のあちこちでやってましたね。でも全然盛り上がんなくて。あんなに盛り上がったの、カウントダウンだったからかな?って思ったんだけど、、冷静に考えたら土曜日の夜やれば盛り上がるんじゃないの?ってなって。土曜にやってみたらまんまと盛り上がって。カウントダウンの再来、みたいになって。それで2016年の春くらいから、土曜日、月2回ってなりましたね。

盛り上がりそうだし、その年のハロウィンもやろう!ってなって。そこで初めてモデルをやるキッカケがあって、たまたまパーティの中にいたファッション関係の、パリのブランドのデザイナーで。ウチのモデルをやってくれって話になって、それのサイトとかに出たら急にファッション関係みたいな友達とか知り合いが増えてきて。未知の世界で。「とにかく服高いな!」って。それがあってから色んな国のやつから「モデルをやってくれ」って来るんですよね。アルゼンチンもあるしフランスとか。「ウチのブランドのパーティーでDJして欲しい」とか。それはそれで面白いからやったりして、、。そのうち訪ねてくるヤツも現れ始めて、「NYで友達に話聞いて来たんだ。」とか、俺の知らない間に噂が回ってるみたいな。ライブしたい、ってヤツも現れ始めてアメリカとかスウェーデンとかのラッパー来てライブする、っていう事も取り込んでいって。

– 展開がワールドワイドですね。今も渋谷でやるんですか?

いつもやってた渋谷の場所で2018年の終わりくらいに連行されて。そのころには結構バチバチだったんで渋谷警察。警察でも俺を知らないヤツいない、俺=DJ、みたいな。挨拶しにくる警官もいて、平日に歩いてるだけなのに、「あ!DJの!今度クラブとかでやらないんですか?」って。そういうの好きなお巡りもいるんで。でも逆に違法駐車取り締まりとかローライダー取り締まりとかの時はお巡りも俺の事見ただけで分かるから、お巡りが俺から離れない。パーティ始めようと思っても、道路の反対側からずっと見てて、荷物おろそうとするとピピピピー!って笛吹かれて。2時間待ってやっと始めるとか、結構末期になってきて、、限界、みたいな。バンドのヤツとか駅前でライブしてるヤツがパクられたりもし始めて。

これめんどくせえなって。そろそろ違う場所に侵攻しようと。それで今年の頭から新宿に変えて、今の場所で始めて、2020の1月で1周年。6月でilleffectsやりはじめて5周年ですね。同じ場所で旗とか立ててるし、勝手にやってるだけなんすけど、謎にオフィシャル感でてきちゃって、まあそういう勘違いは多いにして頂いて、みたいな。

– そもそも “illeffects” の存在を知ったのは、”NFK” のゲリラライブ告知があって見に来た時がキッカケでした。Googleマップ見ながら来てみたら、新宿のビルの隙間にDJブースがあって、緑色の髪の凄い雰囲気のDJが爆音で音楽流して踊ってて、、どんな感じでライブが始まるんだろう?って思ってたら、そこにNFKのバイク集団が現れてライブして、、ライブも凄い勢いで10分くらいで終わってその後もDJパーティーが続いて、、っていう展開があまりにも衝撃的で「新宿のど真ん中で何だこれは!?ヤベえ~!!」ってなりました。VULGARさんは “illeffects” とは別に “NFK” のメンバーでもあるんですよね。

そうですね。世田谷界隈に住んでた頃、俺が適当にチャリンコ走ってたら「こんちわ~!」ってCPWってお店の前でNFKのモトヤンさんに話しかけられて。なんかすげえお店だな、って思って。そこからちょいちょい挨拶したり、お店溜まったりするようになって。それまでNFKとかCPWって全然知らなかったし、オレにとって全部新しい世界でしたね。そういう感じで影響されていったすね。

– 新宿のブロックパーティーも絶妙な場所ですよね。ど真ん中だけど隙間、みたいな。DJって言うとクラブだったりバーで回すイメージがあるんですが、路上でやる事へのこだわりがあるんですか?

今の場所も見つけるのが大変でしたね。すげー歩きましたね。”DJ” って言ったらブロックパーティーだし、俺DJ Kool Herc大好きだし、究極を突き詰めると”STREET”しかない。ドラッグ売るとか、クラブでシャンパン開けるとか、そういうのがSTREETみたいに言われたりするけど「そいつら見た事無えけどな、ココにいるぞ、俺!」みたいな。「ストリートいるなら俺の事も知ってるでしょ?それがストリートでしょ?」みたいな。いろんな”STREET”の定義があっていいと思うんすけど、、渋谷にいるホームレスとか、行く宛も無くほっつき歩いてるヤツとか、スケーターとか、BMXライダーとかがその辺で遊んでて、、それこそがSTRRETでしょ!って思うし。

路上でやってると「そこから有名になれるといいね!」とか、言われたりするんですけど、「いや、別に、、よくないよ!」みたいな。DJがフロアーの王様!ってうイベントあるじゃないですか、高いトコにいて、人が豆粒みたいで。あんなの出来ねえよ、って思うっすね。もっと同じ目線がいいし。俺が出て来たら皆がiPhone!みたいなの超嫌だし、そういう現場はクソ寒いすね。

最初にやったカウントダウンの時も車椅子の人いて、体も麻痺してて何言ってるかも分かりづらいような。でもなんか楽しそうにしてたし、俺も朝までやりきって終わった後に、一番にそいつに話しかけにいったんすよ。そしたら「クラブとか行けないけど、こういう音楽は大好きだ!で、ずっと居ました」っていう風に言ってて。うお~!ヤベえな!って。もう、そんとき泣きそうになっちゃって。横にホームレスのおっさんもずっと居たし、こんな楽しそうにしてんだ!って思ったし。印象深いのは、「死のうと思ってフラフラしてたんだけど、君たちの事見て、考えて、どんだけ馬鹿臭いか分かったよ」って言ってくれたおっさんがいて、、ポケットから有り金全部出してきて「これで何か食べなよ!」って。で、5分後に戻って来て「1000円だけ返して!」みたいな。家に帰る事考えてくれたんだ、っていう。良かった~、って思うっすね。その後、その人ともFacebookで友達になって、今も元気にやってるし。皆、クラブに居るような人達じゃ無いんすよね、雰囲気的に。何を探してた訳じゃないけど、見つけた!って顔してるんすよ。そういうのがどんどん後押しになっていって。色んな人に会えるし。ホームレスのおっさんなんかは「救世主だ!」とか言ってくれたりして。初期の頃から来てくれてるワタルちゃんもバスロータリーに住んでて。携帯も持ってないけど、その仲間とかもいてどういうネットワークだか知らないけど、「八王子から来たよ!」って言う人もいたり。渋谷でやってた頃は、宮下公園の脇でパーティーやってたから、あそこら辺に住んでるホームレス結構友達になって。宮下公園再開発でみんな散っちゃったんですよ。携帯も無いし分からない、そういう人達も来るんですよね。そういうのがどんどんやり続ける理由になっていくんで。サプイラズをしたいですよね、街に。それがやっぱ一番いいな~って。

– 慈悲深いですね、、。

でもまあ、遊んでるだけなんですけどね。だからDJやっててビジネス的なビジョンとか夢とかある人、凄いと思いますね。この先はこうしていきたいとか言うじゃないですか。DJで凄い忙しくやってたり、仕事として稼いでる人もいて、凄いんだけど、、なんか事務が凄い人にしか見えないんすよ。事務作業が凄い人を、皆がiPhoneで撮ってるように見えちゃって。ホントごめん!そう見えちゃう!みたいな。既存のクラブDJっていう人達からしたら、完全にナメてる野郎なんですけど、、俺はクラブDJじゃないんで。俺はこうしてたいんだよ、ってだけなんで。こうしていたい、をどれだけ良くしていくか。だから別の手段で金稼げばいいし、金が稼げればどれだけパーティーを良くするか、みたいな。それはもう単純に良いスピーカー買うとか。でもスピーカー増やしたり大きくしたい訳じゃなくて、今やってるぐらいの範囲でより良く。

機材以外でももっと色んな酒を配れるとか、定期的にパーティー来るヤツ居たら飯食わしてやったりしたいし。その場だけでも温かい飯食えれば違うすからね、ホームレスになれば温かい飯食えないヤツいっぱいいますから。最高じゃないですか?音楽流れててフリーで酒飲めて、、。今はテキーラだけなんで、ゆくゆくはもっと出していければ良いと思ってるし。

– 商売としてやってないと、色々と出費も大変そうですね。

そうっすね、超貧乏。チップとか入れてくれる人も居るけどまあ全然足んないし。だからといってチップを増やそう、っていう努力とか一切しないし。

国内で人気無くていいんで。有名になると、どうしてもみんなiPhoneくんiPhoneちゃんになっちゃうんで。路上ライブでHIP HOPやってるヤツもいるんですけど、まあ大体そうなっちゃってますよね。だからメディアとかは大体お断りだし、TVとか言い出した瞬間に断るっすね。雑誌も来たすよ、「記事にしたいんですけど、次いつやるんですか?」みたいな。で、「有る事無い事書くじゃん、ヤダよ」って言っても「有名になれますよ!」ってくるから「有名になりたくてやってんじゃねーんだよ!」って。そんなの余計な事にしかならないし。

ネットとかでも皆が出てるようなHIP HOPメディアとかあるじゃないすか?そういうとこは絶対に出たくないすね。メディアアレルギーみたいな。ホント、勘違いされるんですよね。路上でやってるから「有名になりたい!」「ココから先、ココを抜け出してどんどん有名になりたい!」みたいな思われてるんすけど、、そりゃ金持ちにもなりたいし、イイ車にも乗りたいし。でもその為に自分のパーティーを切り売りして、やりたくない事したくないし。もちろん稼ぐのは良い事だけど、稼がなくても良いじゃないですか。だからこれで稼ぐ事に必死にはなりたくないかな。

行く末はなんかそうゆうパーティーにふれあう機会が無い所、、施設とかで、子供達だったり障害者だったり、求める人が居て、場所があったらそういう所でもパーティーやりたいですね。ボランティア精神がある訳じゃないんですけど、、昔から遊び行ったりしてたんですよね、障害者施設とか。こうゆうの好きな人、色んな所に居ると思うんですよ。

本格的にどんどん本当の意味でストリートで知られていったら、もっとでかい炊き出しとかもやりたいし。代々木公園でも鍋とか作ってるんですけど、たまたま来たヤツにも振る舞うし、ホームレスの人達も実際喜ぶから、そういう人達にもっと広まってほしいですね。凄い小規模ですけどね。俺たちも楽しいし。身の丈でなるようになっていけば、俺らもやれる事やっていくし。

– これからも路上のパーティーで何が巻き起こるのか、楽しみにしています!!

常に今が楽しいっすね。後退が無いんで、今のところ。この先も平行で、上に上がって行くとか無いかもしれないですけど。毎回楽しみだもんな、次にパーティーやるの。毎回違いますもん。その時にならないと俺も分からないし。

 

PEAK HOUR!!

→PEAK HOURストアーページ

あいちゃん from Burlesque東京 INTERVIEW

今回インタビューで登場するのは、、「目指せ!おっぱいで世界平和♥」がモットーの「あいちゃん」です!夜の六本木、バーレスク東京を舞台にショーガールとして活動する、大きなバストと屈託のない笑顔が印象的な彼女に、知らず知らずのうちにお世話になってる男性諸君も多いはず、、。それは一体どういう事?破天荒でありながらも一貫した姿勢を貫く熱い女、そんなあいちゃんに色々とお話を伺ってきました。それではいってみましょ~!!
<Text&Shooted by KANE>


あいちゃん × PEAK HOUR
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あいちゃんは小学生の頃はどんな子だった?

 (※以下太字 / あいちゃん)

おてんばで外で遊ぶのが好きで、、中学校2年くらいまでペチャパイでチビだったから、結構すばしっこい感じの子でしたw
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元々横浜が地元だけど
幼稚園から小学校5年くらいまでは千葉の鎌ヶ谷って所に住んでて、結構自然もいっぱいある所だったから男の子とも普通に鬼ごっこしたりして遊んでました。それからまた横浜に戻ってきて。物心がついた頃から桜木町のガードの絵を見るのも凄い好きだった。

– 中学生になってからどう変化したの?

住んでたのが横浜の黄金町とか日ノ出町とかあの辺に近い所だったから、、街柄っていうか、道端でたむろしてやたら鼻筋に白いライン引いてたり。EGG (当時流行ったギャル雑誌) が流行った後、名残の時代だったからそういうメイクに憧れて、みたいな。
中2で生理が来てからいきなりオッパイ大っきくなってきて。ペちゃんこだった胸が一ヶ月でBカップになって、そっから毎年、、中3でC、高1でD、E、F、G、H、、で、二十歳までの間に Iカップにまで達して。一回21歳でJにまで達して、今は痩せて I にまで戻ったw
中三で高校の進路決める時に、勉強は嫌いだったし「何で高校行かなきゃならないの?絶対行かない!」とか思ってたんだけど、じゃあ何したいいんだろ?将来?って思って。
いきなり中2でBカップになって下着屋さんに初めて買いに行った時、店のおばちゃんに「何でこんなサイズになるまで下着買いに来なかったの!」って怒られたんだけど、、お母さんを小6の時に亡くしていたから、教えてくれる人いなかったし、その時はむかついたな、、。で、そこから下着を着けるようになって、下着の事色々調べたらワコール (大手下着ブランド) が日本ではNO.1ってなって。更に調べたらワコールで働くと3年から5年の間で全ての部署を回れるらしくて、全てを学べるのがいいなって思って。
ワコールに行くしか無いな、って思ったんだけど採用条件が大卒で。あたしが大学なんて無いって思ったけど、ワコールの推薦枠がある大学、京都造形大学を見つけて。絵を描くのは好きだったし、高校もデザイン科のある高校を受けて、、優等生ではなかったけど高3の夏には入りたかったその大学にAOで受かって入学も決まって。

– 中3の時からワコールへの入社を考えて計画的に動いてたんだね。

そこまでは自分の決めた進路をきれいに組み立てて行ったんだけど、、。高校に入ってからは当時の彼氏と元町の “BRIDGE” にダンスのイベントみたいので行ったのが初めてのCLUB体験で “Bodega” っていうCLUBも近所にあって、夜に親には「ランニング行ってきまーす!」とか言ってウインドブレーカーの下にホットパンツとか履いて、平日の0時回る前の1時間くらいスピーカーの前にいる、っていうのがクラブ遊びのスタートだった。
当時は友達と横浜駅の西口側にある駐車場に溜まるのが日課になってた。今思うとホント軽卒だったんだけど高2のある日、彼氏と別れてヤケクソになってた時、溜まり場から家に帰る途中、通りがかりの車にナンパされて車乗り込んでその人について行っちゃって。私も一人で相手も一人だったんだけど、、場所がどこだか分からないような、だだっ広い駐車場連れてかれて。途中飛び降りようかと思ったけどそれも怖くてできなくて。私が泣いたら相手は躊躇もしてたけどレイプされて。暴力的ではなかったけどグイグイこられて私も諦めて、、。
1~2時間で解放されたけど、、その時に女って不利だなって思った。私は「女として、男に負けない女になろう」ってその時に強く思った。男と対等にやってやろう、じゃなくて「女」を使ってやろうって思ったの。その事件が、私の根源にあると思うし、今も女だから出来る仕事をやってる。
高校卒業した後はワコールの推薦枠がある京都造形芸術大学行って、その頃にSNOOP DOGとか黒人文化に感化されて髪型アフロにしたら、居酒屋とか飲食店で働けなくなってw
どうしよう?ってなってた時にクラブに遊びに行ったら店長に「おまえ面白いな~、うちで働かへん?」って言われて、そのクラブでバイトしながら大学生して、家賃とか最低限の生活費は親に仕送りしてもらっていたけど、結構画材とかでお金かかったりでカツカツだった。
学校の授業でもあたし凄い生意気で。高校の時にデザインの事も学んでたから、初めたての他の子達よりは出来るじゃないですか。そういうのもあってあたし態度が凄い舐め腐ってて。それで適当にやるようになっちゃって単位落としたり。他にも色んな事が重なり、、大学も結局途中で辞めちゃって。

– それが20歳になったくらいだ。目標も無くなった先でどうしようと思った?

人生初の挫折、、。その後横浜に戻ってきて何するか決めてなかったから、半年くらいめっちゃ安いキャバクラで働いて、ノリでやっただけだったし、150万くらいそこで貯めてそのお店も辞めて。貯めたお金が無くなるまでプータローやって。
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一番上があいちゃんw
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使い切る時に「これから何をしよう?」ってなって。ちょうどその頃、神田うのがストッキング販売してそれが凄い流行ってて。神田うのは足が奇麗で「ストッキング」なら、あたしはオッパイが大きいから「下着」みたいな流れに持って行けるような立場になれたらいいな、って思った。
それで佐藤江梨子 (当時人気のあったグラビアアイドル) が好きだったから、所属事務所のイエローキャブも調べたんだけど募集要項とか何も出てこなくって、、。でも芸能人になりたいとかタレントになりたいとかそういう考えは元々無かったし、、「じゃあ、AV女優??」って。その方が短いスパンで名前も売れるし、あたしSEX好きだしw いいじゃん!!ってなって。
その頃渋谷のCLUBによく遊びに行ってて、街歩いてると凄いキャッチとかされるから、ある日キャッチのオヤジに声掛けられた時に色々話を聞いて。案内された事務所で面接して、オッパイが大きくて有名な女優さんも在籍してる事務所で。じゃあココに入ろう、ってなったんだけど、、色々あって、、結局そこの事務所は断って、自分で探して人づてに紹介してもらった事務所に入って。

– そこでAV女優としてデビューを果たすと。
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そう。2009年の6月に「鈴香音色」っていう名前が出来た。まだ芸名が決まってないっていう事で面接に行った時に、音が好きとかそういう流れで「鈴香音色」っていう名前に決まって、、いい事務所だったから嫌な思いとかはなかった。
私は2年で辞めるって決めて始めて。女優業はダラダラ長くやっても、、あたしは売名で名前を世に軽く出すっていうのが目標だったから。でも2年経つ頃に事務所に仕事干されて「そんなんで辞めれんの?」みたいに言われて「まだ続けます」って言ったら半年くらいの内に普通に仕事量戻ってて、、これイジメられてた、って思った。で、パッと「じゃ、辞めまーす」みたいな。それから引退作出して、やめた。
トータル、、2年半の間で単体で、再販みたいなのも入れて100シリーズくらい。人数物だったり企画物で200本くらい。

– 初撮影はどうだった?

以外と緊張しなくてw 緊張は多分してたと思うけど、始まったら「カメラマンさんこういう風に動くんだ、、」とか見渡しながら、後はされるがままで。男優さんも色んな配慮をしながらこなすから「男優さん、すげえな」って最初に思った。SEXうめえなって言うよりも、AV男優って職業なんだなって思った。
初現場の時はシミケンさん (AV男優) 。エロの現場なんだけど、撮影だから照明さん、メイクさん、監督、ADとか全部いる環境だし、ほんとドラマの撮影みたいで。

– およそ300タイトルって凄いよね。実際にはどのくらいの現場数こなしてるの?

200現場は確実にこなしてると思う。マジで一週間の間に4本ぐらい仕事入ったりした時は、それこそマ○コが切れちゃって泣いた。もうヤダ、したくなーい!って。でも、おかげさまで今は下ネタで入れないネタとか無いレベルで喋れるし、一通り経験してる感じ、何か色んなw くだらないのから王道まで、、スカトロ、ハードSM、アナルとかは、NGだけど。
あと私レゲエ音楽が好きで、レゲエは同性愛を許さない文化だからレズもNGにしてたんだけど、一回だけ「小坂めぐる」って言う女優さんがすっごい好きで、ちょうど小坂めぐるさんが引退する頃でやらない?って言う話が来て、あたしと小坂めぐるさんともう一人、女三人で絡んだ。
好きな女優さんだったし、憧れの先輩みたいな感じだったからすごい緊張した。男の人とやる時も映り方とか技はあるんだけど、そういうのを生かしながら、お互いを綺麗に魅せるっていうのを意識して。
AVの現場もすっかり慣れちゃうと、撮影が重なってる時とか隣からガンガン喘ぎ声が聞こえてくる中で平然とお弁当を食べてたりとか、全然気にしないで「あ、お醤油入ってなーい!ヤバ、声だしちゃダメだ」みたいなw 普通の生活だったら考えられない。

– そんなAV女優として活躍した2年半の生活も、いよいよ終止符を打つ事になると。

18の時に地元の「浜劇」ってところに初めてストリップを観に行って、、。子供の頃からそこに在ったのは知ってたし、すごい気になってて、男友達に「どうしても行きたいから」って一緒に行ってもらって観たんだけど、女の人の体がすっごい奇麗で、、。
AV女優からストリッパーになるのがセオリーみたいになってたし、AV女優辞める頃と重ねてストリッパーデビューして。そこからストリップにハマっちゃって。AVは辞めたけどストリップは続けて。
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– ストリップはどこでやってたの?

ストリップは「川崎ロック」デビュー。その後地元の浜劇も出たし。地元で表に垂れ幕も出て。「鈴香音色、来演」みたいなヤツも出してもらったりとか。浅草ロック座も出演させてもらったりして。強面で表情が硬いおじさんとか来るんだけど、わたしがステージで踊った時に笑顔を振りまいた時、そういうおじさんがつい笑っちゃうのとか、ニヤッとしたのを見ると凄い私の中で幸福感、、。一種の快感を感じるな、と思って。
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一番最初に会ってお世話になった姐さんに「5年やらないと踊り子じゃないわよ」って言われて。それで5年やろうって思ったんだけど、、ストリップ三周年の前くらいでお父さんにバレて凄い怒られて。それで勝手に辞めさせられて。
地方営業であちこち行ったりして飲みに行った先で「何やってるの?」って聞かれて「旅芸人です!」とか言ったりしてw すごい楽しかったから、辞めさせられたのも凄い悔しかった。それが25歳くらいの時で。
で、お父さんが「ニューヨークのブランドのバッグの販売権を買ったから、おまえやれ」って言われて、、デスクワークなんか全然やった事ないのに、お父さんの隣でデスクワーク生活を1年くらいやってたんだけど、ホント病んで。私の人生で一番の暗黒時代。その時期が。人と顔を合わせる仕事をずっとやて来てて接客が好きだったけど、その時期は毎日パソコンと睨めっこでお父さんしか顔を合わせない。ああしろ、こうしろ言われるけど全然分からない事ばっかで。
貯金も結構有ったんだけど全部その仕事につぎ込んで底をついてきて、その頃に「こんなんじゃ鬱病になっちゃうよ!!」って言ったら「じゃあ精神病院でも行って診てもらってこい!」って言われて。その勢いで飛び出して診てもらったら、鬱って診断されて、、それが自分でもショックで。「あたしが鬱?!え~!!」ってw でも結局鬱では無かったしw それで仕事も辞めさせてもらって。
お父さんも仕事になる事は色々チャレンジするタイプで、自由にやってる人だけど今は何の仕事してるか分からない。その一件でお互い仕事の話はしなくなったし私も聞かないし。
片親で育ってきて、お母さんに似てる娘がこういう仕事をする事に理解はしてくれてないと思うけど、、でも、とりあえず俺の言いなりには出来ない、ってある程度の諦めはついたんだと思う。

– それからお父さんとは会ったりはしてる?

会うけど普通に実家に帰ってお父さんのご飯食べて、、とかね。自分と似てる所が多くて何かとぶつかるから、あんまり好きじゃないけどすごくリスペクトしてる。

– AVからストリップ、デスクワーク時期を経てどうだった?

ストリップへの未練は今もあるし、お父さんと始めた仕事は今までやった事のない全く違う分野の事だったから、経験としては良かったかなって今は思ってる。でもやっぱり人前に出る仕事がしたい!ってなって探して今やってるのが、六本木にある “BURLESQUE TOKYO“。バーレスクはショーパブのエンターテインメントとして日本の最先端だと思うし。

– バーレスク東京に入った経緯は?

噂を聞いて調べたら、バーレスク東京のオーナーであり演出家、内藤良太さんのブログが出てきて、、そのブログがすげえ熱くって共感できて。ここしかねえ!!って思って。「面接したいです。」って言うのをその日にガンガン書いて送って。自分の今までのプロフィールも書いて、きわっきわのVビキニの全身水着の写真も送って。そしたら向こうも「なんかヤベえの来たぞ、とりあえず入れとけ」みたいになったみたいでw で、面接した次の日から体験で入って、その次の日から本出勤。ポンポンポーン!みたいな感じで、また人前に出る仕事に復帰した。
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@Burlesque東京
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私、以外と面白い人生歩んでるかも、、。先の事を決めないと進みだせない、何して行けばいいか分からないって子もいるけど、そういう生き方が逆に出来ない。コレッ!って決めないと何も出来ないし何もしないっていうタイプだから。今までも行き詰まった時とか、人生の年表書いたりとか、5年後何してたい、10年後何したいって紙に書いて知って、、自分の意志を確認したりとか常にしてる。

– 未来はどうありたい?

今やってるバーレスク東京も楽しいし、まだ決まってない。ストリッパーへの未練もあるし、アートな事したいし、下着とかもやりたいし、結婚して子供生みたいっていうのもあるし色々せめぎあってるお年頃、、なのかな。
ストリップの先輩の姐さんがいるんだけど、その人は40過ぎててすっごい綺麗で、、旦那さんもいて子供も育てて、そういうのが理想かな。かっこいい。女前というか男前というか。すごく粋だし、裸一貫で人を楽しませるっていう。あたし自身も、そうやって人を魅了させたいな。
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Full Moon Rave 2017@ageha
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– ピークアワーっていう言葉から何を連想する?

気持ちがいい時。お客さんの笑顔をたくさん見れた時。たくさん見れた上で、ちゃんとプロップスが返ってきたときはホントに、、ピークアワーかな。楽しませたい気持ちは常に持ってるから、バーレスクも遊びにきてほしいし絶対に後悔させない、って思ってる。
私が辿ってきた経歴に悔いはないし何も恥じてないし全部話せる。女優だった時代も、その話に触れなかったら忘れ去られて何事もなくなるだろうけど、隠したくないから言うし。理解出来ない人はつるむ必要もないし。
高校、大学の友達も、クラブの遊び友達も、私が女優やってた頃から今も、誰も否定しなかった。いい環境だったし今後も色んな人達と出会って、私にしか出来ないような事を表現していきたい!!
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– 今日はありがとうございました!今後の活躍も楽しみにしてます!(握手)あいちゃんの出演情報や近況に関しては、バーレスク東京のスケジュール、あいちゃんのツイッター等をチェックして是非現場でヴァイブスを体感してみて下さい!
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<Twitter : あい@バーレスク東京

BURLESQUE東京 Website

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PEAK HOUR!!

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Sophiee with ゆるふわギャング INTERVIEW

 ゆるふわギャング、、!? Ryugo IshidaとSophiee の男女2MC、ビートメイカーのAUTOMATICの3人で、およそ半年前に結成された最新式HIP HOPユニット、それが「ゆるふわギャング」。
前回のRyugo Ishidaへのインタビューから引き続き、今回はゆるふわ紅一点のフィメールラッパー Sophieeへのインタビューを中心に、メンバー3人を交えた座談形式でお送りします!!
<Text&Shooted by KANE>
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Sophiee × PEAK HOUR
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–  今日は「ゆるふわギャング」でのファーストアルバム制作作業中という事だけど、ソフィは何が切っ掛けでラップを始めたの?
(※以下 S – Sophiee / R – Ryugo Ishida / A – AUTOMATIC)

S
その頃遊んでた友達にラッパーが多くて、ノリで始めたんだけど途中から本気になってきて。もともと音楽凄い好きだったし、面白そうだったから、、。

– それは何歳の頃?

S
高2くらいです。レゲエ好きでヒップホップも聴くようになって。アメリカのばっか色々聴いてて、、EMINEMの “Without me” とか高校の頃凄いキャッチーで、”Stan” とか、、。色々出来るEMINEMは衝撃だったんですよ。音の聴こえ的に面白かったし、ソフィは最初、EMINEMで面白いって思ったし、全然ヒップホップ聴かない人にもその衝撃を味わってほしい。そういうの大事なんだろうなって思いながら曲も作ってます。

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– ソフィの地元はどこなの?

S
品川ですね。お台場まで電車で3分の距離ですね。ずっと住んでて普通だと思ってたんですけど、茨城行ったりして帰ってくるじゃないですか、相当キモい街なんだなって。アハハ、作られたモノしか無いから、、。今まで全然違和感なかったのに今は超あるw 改めて、、。でも水は近いからいいよね。
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– 中学高校の頃はどんな女の子だったの?

S
今は22なんですけど、中三の頃から六本木のクラブ行ったり、超遊んでましたね。死ぬくらい、遊んでましたw その頃地元のピザ屋でアルバイト始めて。中学生だったんですけどコネで入れてもらって働いてて。
クラブ遊びはそのピザ屋の先輩に連れて行ってもらったのが初めてで。高校生になってからはお金貯めてN.Y行ったりスペイン行ったりして、N.Yに行ってから音楽もより好きになって。
世界旅行の本で目閉じてページをペラペラ~ってやって止めたページがスペインで、時期的にトマト祭りが被ってて。これ行かなきゃヤバいって思ってw 運命だって思ってw 16とか17歳くらい。お金貯めて一人で行って超楽しかった、、。
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15歳頃のソフィちゃん。
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– 2016の春にリリースしたフリー・ダウンロードのEP “SALT” でのソフィと、現行の「ゆるふわギャング」のソフィを音源で比べると、雰囲気がだいぶ変わったように思います。
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Sophiee / SALT
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S
最近感じることが多くて。ずっと東京に居ると景色も変わらないし全然開かなかったけど、リュウゴ君と会ってから茨城に行ったり色んなとこ行くようになって、、どんどんドアが開いてく、みたいな。
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R
今回作った曲全部にストーリーがあって、作るのも面白かったです。ず~っと二人で車で動きながら曲作りしてたんで。

S
「ゆるふわギャング」のアルバムの半分は、夏に超ブンブンで遊びながら作ったからテンション高いんですけど、予想以上に注目されて、、それから色んな人とも出会ったし、人に会いすぎてエネルギー使っちゃって、秋ぐらいとか曲も書けなくなって、、。でも11月に山梨行って、なんかボォ~~ッ!!ってなってw

– 山梨で覚醒したんだw 甲府の桜座であった「バンコクナイツ」上映会の時だね。

S
もう一個ドアあったみたいな。ステージ2みたいな。ゲームしてるみたいに。その日からまた「ゆるふわギャング」のアルバム後半の曲も一気に書き出して。

– ソフィーとリュウゴの出会いはいつ頃?

S
今年の6月にライブで知り合って、一緒に曲作り出したのが7月くらい。

– 出会ってから半年、その前は4月にソフィが “SALT” EPをフリーDLで出して、5月にリュウゴとAUTOMATIC BEATのタッグによる “Everyday Is Flyday” が発売、それから間もなくして「ゆるふわギャング」を結成して、今に至ると。
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S
こんな風になるの想像してなかったから、、遊びながら作ってて、思ってたより曲もいっぱい出来たしボリュームあるし。自分でもビックリしてます。


-「ゆるふわギャング」っていうネーミングの由来は?

R
ソフィに俺のラップがゆるふわだねって言われたのと、お互いタトゥーが入っててふわってるけどギャングだねw で「ゆるふわギャング」になりました。
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– (この日、全体の9割ぐらい出来上がったというアルバムのデモを聴きながら)ソフィの独特な雰囲気っていうか、今回のアルバムで炸裂していますね。

S
日本人あまり聴かないからですかね?常に新しい事が好きすぎて、、アメリカは常にフレッシュな気がして。だからそっちばっか聴いてるのかな?必ずターニングポイントでぶち込んでくる人がいるんですよ。そこからその時代の曲が変わってくような。そういうのになりたいなって思って。キーパーソンになりたい。こういうのもあるっしょ?的なものですね。
音楽で海外に行きたい、海外行って有名になりたい。最終は火星に行く事です。あはは


– 最近よく聴く曲とかは?

R
音楽っていうより最近映画よく観ますね、NETFLIXとかで。ストレンジャー・シングスとか、、。あとエクス・マキナ、人工知能が人間を追い抜く瞬間の話なんですけど。

-(会話の最中、ちょうどBGMにゆるふわギャングの “Fuckin’ Car” が流れている。)この曲は途中で展開が大きく変わるけど、トラックはどのようにに作っていったんですか?
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A
二曲繋ぎ合わせてるんですけど、一曲はフリーでネットで落として、もう一曲もネットで出てたのをメールして交渉して買いました。


– “Fuckin’ Car” に関してはAUTOMATIC BEATでは無いんですね。

A
そうなんです。でもこの曲から全て始まったので。この曲が「ゆるふわギャング」のインスピレーション、、これを聴いてこういう事か~、、みたいな、、。アルバム全体の色というか、ここから始まったんです。
2人から声をもらって音作りも展開していく事が多いので。自分からシンプルな形で音を渡して、2人の声が届いて、そこから曲としてアレンジしていくんで。ツイッターのダイレクトメッセージでやり取りしながら。
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S
ぶっちぎりでいたい、、。

R
(アルバム制作の)後半はもう、感情乗りっぱなしですね。感情的になるっていうか、そういうパターンに変わっていったよね。

S
ソフィ、冷たかったんですよ。人に興味ないっていうか、、誰に対してもドライだったんですよ。何かそういう環境が小さい時からずっとあって、ホント冷たかったんですよ。”SALT” EP の GHOSTって曲で言ってる事もマジでガチだったしw ソフィは前はああいう人でした。けど、ゆるふわやってからだんだん今溶けてきてるから。
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ゆるふわやるまで自分も病んでたし、だから今病んでる人達の事が分かるっていうか、前の自分にも言い聞かせてる。普通にメンヘラだったと思うし。そうなっちゃう人の事も分かる。ソフィは音楽やって救われたっていうか、、自分が凄い変わった。
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– 今日は「ゆるふわギャング」のメンバー三人が揃い踏みで、1ファンとして嬉しい光景です。

A
3人で会ったのは通算で4,5回くらいで。けどその距離感とはちょっと違いますね。チューニング合う人見つけた!みたいな。

S
ウチらは常に2人で行動してるから。(空中を指差して)ココにAUTOMATICさんが居て、、。会ってなくても会ってる感じがしてる。
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– 出会いと躍進、3人にとって今年は大激変の年だったんですね。

S
自分たちも大激変だったけど、それに気付いた人達も新しすぎて大激変だと思う。現在進行形っていう感じで、、音楽はタイトにやっていきたい。ゆるふわだけど。

R
幸せすぎて、ハイになりすぎてもう泣いちゃうぐらいの、、溢れる曲ばっかり出来たから、、。

A
この二人のバランス感覚は凄いですね。もちろん主人公も出来るんですけど、目の前で起こっている事を客観的にドライに観てるっていうか。二人にはこのまま感性で走ってもらって、俺はそのバックアップっていうか知識とかそういう部分でガッチリ行きます。

– ソフィにとってのピークアワーはどんな時?


S
音楽やってるとき、一緒に曲作ってる時とか、、曲が出来た時。ウチらが声録って、AUTOMATICさんにデータを投げて、また帰ってきた時。来た!!みたいな、プレゼント!!みたいなw ツイッターのDMを開ける、その瞬間がピークアワー。

A
リュウゴはいつピークになってんの?

R
いつもピークになってますね、、、。幸せっすね、、。

S
アハハ、凄い!うん、、そうだよね、、うん、、。 


– 2017年は早々に「ゆるふわギャング」のファーストアルバムも発売という事で、今後の活躍と動向を楽しみにしてます!!(握手)
その他、最新の情報等は下記 ツイッターのアカウントを是非チェックしてくださいね!!
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<Twitter : SophieeRyugo IshidaAUTOMATIC

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PEAK HOUR!!

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Ryugo Ishida INTERVIEW

茨城県の南部、海と見間違えてしまう程の大きな湖、霞ヶ浦に隣接する土浦をバックボーンに、日本語とTRAPの融和を軸にした独自のスタイルで中毒者続出中の問題作 “EverydayIsFlyday” を5月にリリース、、現在23歳にして今年新たなスタートを切ったラッパー “Ryugo Ishida” とは?
ヤンチャな風貌だけじゃ計り知れない、、今回は一癖も二癖もある才能に溢れた異端児である彼にインタビュー!!深みあり危ないよ!!
<Text&Shooted by KANE>
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Ryugo Ishida × PEAK HOUR
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– 今回こうしてインタビューをするまでに至ったきっかけは、今年夏終わりぐらいに遊びに行ったイベントでライブしてるのをたまたま観て、その日 Ryugo Ishida というラッパーの存在を初めて知って。タトゥーだらけで青いシャカシャカのジャージ履いて、ひょうひょうとラップを繰り出すその時のライブが面白くて、凄いインパクトあって。そこから YOUTUBE観てトバされて、今回のアルバムもゲットして Ryugo Ishida の言葉、スタイル、世界観、、更にトバされて。そもそもラップを始めたきっかけって何だったの?
 (※以下太字 / Ryugo Ishida)

俺が小学校2年の時、両親が離婚してるんですよ。父親との記憶ってほとんど虐待とかしかなくって怖かったんですけど、ある日急に「お父さんいなくなったよ。」って言われた時、凄い悲しかったんですよ。離婚した後に父親と1回だけ会う機会があって、暴力がひどかったんで会うの怖かったんですけど、その時は何でも言う事聞いてくれてそれが凄い嬉しかったんです。また次に会う約束もしたんですけど結局連絡こなくなっちゃって。後から手紙で父親が事故死した事を知って、その後父親の実家に行った時、いつもしてた指輪と俺が小さい頃遊んでたミニカーがあって。その時初めて父親の愛情に気付いたんですよ。虐待とかあったけど俺の事思ってくれてたんだな、って。その事をずっと後悔してて。中学入ってからも初めて出来た彼女がレイプされたり、家も貧乏で新しい父親が借金凄くて首吊ろうとしたり色々あって、、そういう生活が嫌だったんですよ。貧乏とか、人が死ぬ事とか、暴力だったりとかが。その頃自分も凄いグレてて、誰も信じれなくて、喧嘩とかばっかで。で、自分が中学3年の時、いとこも当時ヤンチャでHIP HOPのオーバーサイズみたいなファッションしてて、、その時に観たZEEBRAの “Street Dreams” って曲でも滑走路で日章旗のTシャツ着て、悪そうな人達引き連れて歩いてて「めっちゃ不良じゃん!ヤンチャじゃん!俺もそういう格好しよう!」って思って。そういう格好してたら、HIP HOP好きな先輩が話しかけてくれて。HIP HOP全然知らないし、聞いたら色々教えてくれて。それで初めてクラブに連れて行ってくれて、その時に観たライブで食らっちゃったんですよ。DEAR’BROさんっていう人で、CDもくれて。こんな近くに「ラッパー」って居るんだなって思って。言いたい事を言ってて、言葉の力が凄くて。その時、「俺も糞だと思ってる事全部言えるんだ!!」って思って。で、、ラッパーになろうって決めたんです。
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中学三年生の卒業記念写真。一番左がRyugo君。
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– 中3の時、そのライブを見るまでは HIP HOPを聴いたりしてなかった?

はい。その頃はブルーハーツだとか、尾崎の「15の夜」とか聴いてて。一人で聴きながら「何でこんなに毎日が糞なんだろう?」って。
ラップやる、ってなって歌詞を書く事を始めてたんですけど、「インスト」にラップを乗せるって言う事は先輩から聞いてたんですよ。「インスト」って何だ?て思って、ある日ビレッジ・ヴァンガードいったらジブリの作品集のインストが売ってて「あ!インストあった!!」ってなって。 初めてのラップはジブリのインストに乗せましたねw でも何かダセえなって思ってて。

その頃DEF TECHが流行ってて、CD友達が持ってて。それにもインストが入ってて。それで “Dear my friend” って言う曲を録って。その頃はHIP HOPが好きっていう友達が自然に5人くらい集まってやってましたね。
MTRって機材があれば曲を作れるって事で、下駄箱のスニーカーパクったり学校で新しい携帯持ってるヤツの盗んで売って金にしたりして、MTR買ったんですよ。それで、ひたすら作るようになって。中三の時から高校始まりぐらいまでは最初に集まった5人でやってて、そこからみんな遊び方変わっていって。
高校入ってから俺はクラブ遊びに夢中だったし。で、ライブやりたいけど場所が無い、どうすればいいのか先輩に相談したら「自分たちでイベントやればいいんだよ。」って言われて、同じ世代のヤツとか友達とか呼びまくって、やってみたらすげぇ盛り上がって。イベントもやって毎週クラブ遊びもやって面白かったですね。あちこちで喧嘩とかもあったり、夜の街ってこんな楽しいんだ!!ってなって。
中学の頃は喧嘩ばっかだったけど、高校入ってからは学校なんて行ってもつまんないし、授業もまともに受けないでリリック書いて、、夜はクラブ遊び、クラブオンリー。そこで色んな人達と知り合えたし、とにかく音楽に夢中でしたね。高1で始めた自分たちのイベントも偶数月で二十歳過ぎまでやったし。
高校卒業してからはTシャツのプリント屋でバイトしながら音楽もやってたんですけど、下手くそだし全然上達しなくて。その時にちょっとデザインも覚えて、自分たちのフライヤー作ったりとか。
二十歳になる時、このままじゃまずい、、何かもっと自分にしか出来ない事ないかな?って思ってお店始めたんですよ。
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土浦駅に隣接するMALL505に当時 “YBC” をオープン。今は閉店した店舗が目立つ。
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– 資金は貯めてたんだ?

二十歳で速攻借金しました。

消費者金融で?

はい。引っ張れるだけ引っ張って、それ賭けて友達二人で “YBC” って古着屋みたいの始めたんですけど1年くらいでダメになって。その影には色々あって、、ヤンチャだった時の、お金がらみの仕事もやったりして、荒れていましたね。”YBC” 閉めてから、金も稼いでいかなきゃならなくてBARで働き始めてからテクノとかハウスとかも覚えて、そういうパーティの遊び方も覚えて、、。もっと音楽もやらなきゃって思ってたその頃に、AUTOMATICさんと地元のイベントがらみのミーティングで出会うんです。周りの人からも「彼の音はヤバいよ」って言われたりして、そこで「俺、あと2年で売れたいんですけど自分をプロデュースしてください」って頼んで。俺その時とか、凄いラップ下手で、、。

– 今回のとその時(2年前)のラップのスタイルは全然違う?

全く違いますね。今回のアルバムの中の曲で “Fifteen” ってあるんですけど、十代の事を歌ってるからこそラップの調子も前のノリでやってます。この映像では地元の中学生たくさん出演してて、俺の弟も出てますw
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ラップも新しいのが流行り始めたじゃないですか。KOHH君の曲聴いたりして、俺もこういうのがやりたい!ってなって20歳過ぎてから始めたんですけどTRAP系のノリも最初は酷くて。ラップの仕方も超教わって、凄い勉強して。お店終わってからレコーディングして練習して、練習して、、。AUTOMATICさんと一緒に “1993”っていうフリー・ダウンロードのEPを半年に1回出していこうよって事で、ひたすら録った曲の中からイイ曲を5曲づつ出しながら練習しまくって。2年で売れたいっていうのもあって、”1993″ EPを3回出して4回目で今回のファーストアルバム “EverydayIsFlyday” で完結させよう、と。

– AUTOMATIC氏との出会いから、また急速にレベルアップしていくんだね。

そうですね。聴かせられるようなラップじゃなかったし、去年ぐらいまでは生活もやさぐれてて。荒れた生活から抜け出したかったし、金を持ってる時期もあったけどあぶく銭は一瞬で無くなるし、離れていく友達も多かったし、借金もブラックになって、いつまでもこんなじゃ駄目だ、アルバムも出して売れなきゃいけないんだ、と思って。
売れる為にはどうしていくか?やっぱり、ラッパーは曲作るしか無い。たくさん曲作って、練習して、それで “EverydayIsFlyday” を作って。

– 今回アルバムから3曲が MVになって Youtubeでも見れるけど、その中でも “YRB” は映像も際立ってインパクトがありました。あの曲はどういった経緯で出来上がったの?

これはBARで働いてた時、色んなのをチャンポンしてベロンベロンになっちゃったんですよ。で、トイレで潰れちゃって、朝起きたらソファの上にいて、何やってんだろう?ってなりながらめっちゃ幸せで。多幸感ハンパなくて。トイレで潰れてるときも夢見てたんですよ、売れてる夢ていうか、、それを書いたんです。映像もAUTOMATICさんと俺でパソコンいじりながら作りました。
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ジャケの “AKIRA” っぽい雰囲気のアートワークも最高でした。”AKIRA” 好き?

“AKIRA” の感じにしたのは年上の人達も聴いてもらえるように、ってのがまずあって。”AKIRA” の4巻の表紙が元なんですけど、それが地元土浦の旧港の風景に似てるのもあったり、、「俺たち優良不良少年だぜ!ヨタヨタのジャンキーども!」みたいな。金田すげえアツイじゃないですか。あのキャラと自分をリンクさせたいっていうのもありましたね。
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– それがファーストアルバム “EverydayIsFlyday” として、今年の5月に発売したんだ。

はい。それから6月、7月って東京でライブが増えてきて、ちゃんと生活していかなきゃいけなかったけど、お金も無いのに見栄はって洋服買ったり奢ったり、色々溺れちゃって、、。なんだかんだで私生活が全部ゼロになっちゃったんですよ。
支えるものも、仕事も無い、お金も無い。その時に見栄はって買った物とかは全て売ったりとかして。残ってるのは親父の形見と、自分で買った指輪、あと婆ちゃんからもらったネックレスぐらいで、そしたら何か吹っ切れて、、。

– それが今の “Ryugo Ishida” の新境地、なんだね。
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そこからライブの仕方も変わったし、自分が何なのか分かるようになって。
今回のアルバムは青春時代の全てを集約していて、今の自分はそこから更に何も無くなった自分なんです。”EverydayIsFlyday” は過去の自分で、今その次元に自分はいないというか、、。こういう内容のアルバムは今作れないし、今まで DUDEって言う名前でやってきてて、このアルバムを出すタイミングから死んだ父親が付けてくれた名前、本名の “Ryugo Ishida” で勝負していこうって思ったんですよ。

夢は常にでっかく持ってたいし、本気でグラミー賞穫りたいし、世界で通用するような音の気持ち良さを追求して行きたいって思ってます。この次で今のRyugo Ishidaがどんなのかもっと分かるだろうし。
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– それが今の「ゆるふわギャング」の世界観へ繋がって行くんだ。最近聴いてる好きな曲とかは?

lil yachty、名前もヨットからきてるらしいんですけど、水っぽいイメージが多くて好きですね。そういうのも吸収しつつ、俺色に変換出来たら。山も海も好きだし、テクノとかハウスとかのエンドレスな感じも凄い好きだし、、そういうのも混ぜて行きたい。常に踊らしたいんですよ。
あとブルーハーツ、北野武の「浅草キッド」も凄い沁みるんですよね。T-BOLANも好きだし、、。椎名林檎の「私生活」って曲の歌詞とかもトバされたし、小沢健二も最近聴いたり、、ゴイステ、、GOING STEADYとか。青春ものも好きで、、常に青春してたいなって。
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– 今この瞬間もピークアワー、人それぞれピークアワーって色々あると思うんだけど “PEAK HOUR” っていう言葉から何を連想する?

今は彼女といる時間ですね。一緒に共有できる時間が凄い幸せだし、大事なんですよね。俺の中で太陽ですね。彼女がいるから成り立ってるんですよ。音楽も最近良くなってきたし「愛の力こんな凄いんだ!」って思って。
好きだからやってる、好きな事しか出来ない。好きな事いっぱいあるし、好きな事だけやってたいんですよ、それが楽しくて、そうすると好きな事で色々見えてくるっていうか。音楽が好きでずっとやってきて、今はお金は無いけど幸せだし、支えてくれてる人達がいるからこそ出来てるものだと思う。
やってるからこそ泣かせてきた人達もいるし。全てが当たり前ではない、生かされてるというか、自然に対してもそう、何においても感謝する気持ち。それが無いと悲しいじゃないですか。そういう事をもっと伝えて行きたい。
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霞ヶ浦に隣接する地元の旧港は昔からのチル・スポット。
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– 今日はありがとうございました!!次には「ゆるふわギャング」としてのアルバムや様々なプロジェクトもあるみたいだし、今後の動向も楽しみにしてます!!(握手)
その他、最新の情報等は下記 ツイッターのアカウントを是非チェックしてくださいね!!

<Twitter : Ryugo IshidaAUTOMATIC

 


● CDプレゼントのお知らせ
10/16 ~ 10/23までの期間内に、今回のRyugo Ishidaのインタビューや映像等を観た感想をinfo@peakhour.jpまでお送り下さい。抽選で3名様に Ryugo Ishida の1st アルバム “EverydayIsFlyday” CDをプレゼントします。
※メールの件名に<Ryugo Ishida 感想> と、当選した際に送付する宛先、氏名を必ず記載して下さい。当選の発表は発送をもってかえさせて頂きます。


 

PEAK HOUR!!

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OJIBAH INTERVIEW

残暑真っ盛り!!ピークアワー!!皆さんいかがお過ごしでしょうか~!?先日の8月11日にラッパーの OJIBAH氏が、本人初となる配信限定でのシングル「 A 」と「 B 」を2曲同時リリース!!更に配信シングルと平行して ” How’s tha weather? ” EPも、CD盤がZAKAI にて限定発売。
今回のプロジェクトでは、246GRAPHIXとして自分も配信画像ジャケットの制作で参加しました。
そんなこんなでリリースに至るまでの経緯、曲にまつわる思いなどを発売直後のOJIBAH氏に伺ったショートインタビュー、それではどうぞ~!!

<細字 / カネちゃん>
– 今回のリリースはどういったきっかけでスタートしたの?

<太字 / OJIBAH>
えっとですねぇ、しばらくブランクがあったんですよ。で、少し前にWAX君のアルバム “YEAH” で客演したんですけど、そこで火がついて、、。その矢先、ふとツイッターを見てたんですよ。そこで海外のトラックメイカー、 THE A3 ていう人が新曲をアップしてたんですよ。それがヤバくて。何年か前から彼とはやり取りしてるんですけど、、今まで聴いた中でも一番ヤベえ!!ってなっちゃって。音の展開がすごくて、階段を昇っていくような。速攻リリック書いたらザクザク書けちゃって。

– 最初にやり始めたのは「 A 」と「 B 」どっち?

「 A 」ですね。トラックの展開も多いんで書き直したり、そこにアジャストさせるのが苦労しましたね。そのタイミングでもう一回、トラックメイカーの THE A3 の他の新曲を聴いたらもう一個、超ヤベえのがあって。それが「 B 」すね。すぐにフックのメロディ降りてきてリリックもすんなり書けて。

– 「 A 」はどういった事をラップしてるの?


OJIBAH / A 【i tunes限定配信シングル】

「 A 」では目に見えるもの、物質的な物、お金に捕われてる自分の事だったりとかを歌って、フックでは逆に「目に見える物が全てじゃないんだよ」、っていう事を歌ってます。

– 「 B 」は?


OJIBAH / B 【i tunes限定配信シングル】

「 B 」は内面ですね。目に見えないもの。例えば、人の気持ちって目では見えにくいものじゃないですか。表現したらそれは目に見えるけど、、内面の気持ちの部分を歌って、フックでは「現実から目を逸らしたらダメだよ」、っていう事を歌ってます。

– 2曲で1個なんだね。

そうなんですよ。目に見えるものと、目に見えないもの。「 A 」と「 B 」で完結する話ですね。あえてタイトルがこうなのも、その無機質さに面白味を感じちゃって。「 A 」と「 B 」って分かりやすいじゃないですか。リスナーも自由に感情移入しやすいかなと。

–  ジャケ制作するにあたって今回の配信される2曲を繰り返し聴いてさ、俺も「内」と「外」的な雰囲気をそれぞれの曲から感じて。撮影したオジヴァの写真を軸に、それぞれの曲の音の波形画像、書き殴られたリリック帳の断片を構成して「A」と「B」の雰囲気を画像ジャケで表現したんだ。
オジヴァは配信されてる曲を買ったりする?

しますね。

– 最近配信で買ってお気に入りのアーティストとか曲は?

MAJOR LAZORの「 LIGHT IT UP 」っていう曲ですね。宇多田ヒカルの最近出たシングル「 真夏の通り雨 」っていうのと「 花束を君に 」とか。結構色々買ってますね。そういうのもあって、自分も今回配信で出してみようと。
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– 今回の配信2曲とは別に、CD盤でZAKAI限定発売の “HOW’S THA WEATHER?” も同時リリースしたね。EPのタイトルにもなってる ” ハウズザウェザー? ” は凄くリラックスした雰囲気が気持ちいい感じで、、そこからEP全編を通して普段のオジバの生活感が見えてくるような。「あの曲のインスト使ってこういうラップするんだ!」っていうノリとか、客演で登場する皆も、MIX TAPE的な面白さあるよね。


OJIBAH / HOW’S THA WEATHER? EP 【ZAKAI限定発売】

.” ハウズザウェザー? ” は今回のプロジェクトの中で一番最後に録った曲なんですけど、スタジオで作業終盤にもう疲れちゃってて、それで録ったんですけど、、尽き果てる直前の感じで録ったら綺麗に出来たっていう。
配信の2曲はお店で食べる料理、CD盤のEPは家で食べる料理、っていうのが分かりやすいと思いますw
7月頭に「 A 」のトラックに出会って。そこから配信の2曲が出来て、その後にまだ物足りなくって勢いでEPも作って。7月の一ヶ月間にカツカツのスケジュールで進めたんで、急遽今回のプロジェクトに関わってくれた皆様には本当に感謝です。皆さんのおかげですね。

– 夏の勢いをパックした今回のプロジェクト、配信シングルの2曲は i tunes で、EP盤は ZAKAI で購入出来るという事なので是非チェックしてみて下さいね~!!
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STAY DOPE!!

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えめ君 INTERVIEW

夏至も過ぎいよいよ夏本番!!今回のインタビューに登場してくれるのは、えめ君です。スタジオ・ピークアワーでは今回、彼の描き下ろしイラスト・フライヤーと、愛車にまたがる本人を撮影した写真フライヤーにてダブルのフライヤー登場!!只今絶賛配布中です!
ロイヤルホストで待ち合わせをしたインタビュー当日、颯爽とバイクで現れたえめ君。一癖も二癖もある彼の人物像に迫るべく色々とお話を聞く事が出来ました。

えめ君 × PEAK HOUR ポストカード・フライヤー / 2016 ©Studio PEAK HOUR

<細字 / カネちゃん>
– それではまず、お名前を伺ってよろしいですか?

<太字 / えめ君>
どうも、えめ君です。よろしくお願いします。

– そもそも俺は、えめ君の描くイラストがすっごく好きでさ。ピークアワーでもなんらかの形で参加して欲しいと思ってて、しつこく絵を描いてくれ、って頼んでたんだよね。
えめ君の描く絵って、なんつーか独特の訳が分からない可愛さがあると思うんだけど、、絵を描く上で影響を受けた物とかあるの?


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eme2
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eme1

カワイイの好きなんでうれしいっすね。何が影響して自分の絵がこういう感じなのかは、よく分からないですね。基本的に描いてる絵は小さい頃から変わらないです。今回の絵は何回かに分けて足していってるんですよ。一気に描き上げる訳じゃなくて「こうやったらもっと可愛くなるかな~?」とか考えて、それが可愛くなった時に興奮してくるんですよ。ゾワ~ッ!!て来るんですよね。そしたらもうどんどん盛り上がっちゃって、「こうしよう、ああしよう」ってなるんですけど、冷めてくると今日はもういいやってなるんです。

– それの積み重ねで出来たんだw 今回のイラストは何回ぐらいに分けて描き上げてるの?

何回だろう?一週間ぐらいの間で描きましたね。

 

PEAK HOUR B5サイズ・フライヤー / Artwork by えめ君 2016 ©Studio PEAK HOUR

– 今回の絵は、どこから描き始めスタートしたの?

真ん中の丸いヤツですね。この子はいっつも棒のお菓子持ってるんですよ。初日はこの子がピースしてる手ぐらいまで描いて終わったと思います。
周りを囲んでるブランコ乗ったヤツらの構図を思いついたときはすんごい興奮しましたね。ブランコに鈴みたいの付いてるんですけど、それが鳴ってるんですよ。音楽って楽しい物だと思うんで音符をいっぱい入れて、、音符の上に乗ってるナイトキャップ被ってる子、昔からいるんですけど、この子も遊びにきてる。可愛いと思うんですよね、音符の上に乗っかてるのって。あとピースサインも好きでよく描きますね。
あちこちでお魚を追いかけてる猫もいるんですけど、本当は仲良しなんで右下の手前では皆で揃ってピースしてるんですよ。
両手に旗持ってる右下のキャラは小学校低学年の頃から描いてますね。当時は手足は無くって、ミノムシみたいなキャラで。学校の机に彫って絵の具染込ませたり、カバンの中敷きに描いたり。どういうつもりだったんですかねw 今でもすごく大事に描き続けてるキャラなんです。

– なるほど、キャラクターに歴史もあったり色々深読み出来るねw 真ん中の子もピースしてるけど震えて青ざめてるし、、。ブランコ乗ってる奴らもハンパなさそうだし。~神界って言葉も書いてあるけど、そこら辺からは宗教的な雰囲気も感じるな~。

僕自身は無宗教っていうんですかね?何か特定の宗教を信仰してる訳ではないんですけど、、。日本神話とかぶっ飛んでて面白いし、一時期は宗教の勉強したりとかしてましたよ。得体の知れない物がものすごく好きなんですよ。自分では思いつかない様な話とか、そうゆうのって凄いゾクゾクしますね。左上の置物神界は、置物の神様です。知り合いのおばちゃんちとかで、玄関先に訳の分からない置物とかあったりするじゃないですか?どこで買ってきたんだろう?みたいな。

– 漫画の影響とかもあるの?小さい頃よく読んでた漫画とかある?

コロコロコミックとか、あと姉ちゃんの少女漫画よく読んでて。「ピョンピョン」とか「アサリちゃん」とか、、色々あったじゃないですか。あと一見作者の名前が男なんだけど、これ本当に男の人が描いてるのかな~?っていう漫画があって、、「ワイルドハーフ」って知ってます?

– いや、知らないな~、、。

あと、「神様はサウスポー」っていうボクシング漫画。それとかも作者名は男の名前なんですけど、実は女の人が描いてるんじゃないかな~?って思いながら読んでましたね。内容がボーイズラブっぽいんですよ、オタク系の女性が好きそうな内容で、、。気持ち悪さがいいんですよね。男にはかけない雰囲気っていうか、、。姉ちゃんの買ってきた同人誌とか読んでると女性視点のホモネタとかもあって。そういうの発見するのが好きでしたね。
みんな小学生の頃ってウンコネタとかで盛り上がってるじゃないですか、でも「僕はこんなのや、あんなのまで知ってるんだぞ」みたいなw 誰に言う訳でもないんですけど優越感でしたね。

– 小さな頃から何とも奇抜な少年だったんだねw

自分は三兄弟の末っ子なんですよ。親も育児に慣れてたみたいだし、手のかからない子だったみたいで自由奔放に育ったんですよね。で、やるイタズラが変わってて、今でも覚えてるんですけど、母ちゃんが寝てる時に鼻の穴にチンポコを入れるイタズラが凄い好きで、、母ちゃんも最初は寝たふりしてるんですけど、笑いながら「止めなさい」って言うまで続けるみたいな。5~6歳になるまでやってましたねw
うちの母ちゃんは週刊誌好きだったんですよ。当時 “スリーFイチE ” だか、そんな言葉があって、Fから始まる週刊誌、フライデー、フラッシュ、フォーカス、、あとエンマってあったんですよね。ゴシップ系週刊誌の四天王みたいな。あと週間宝石とか。そこら辺が子供の頃から大好きでよく読んでましたね。

– 家に置いてある、その手の週刊誌を食い入るように見てたの?

そうです。「あなたのおっぱい2000円で見せて下さい」とか、ああいうの見てドキドキしたり。あと、昔の雑誌って今より凄い過激だったんで、海外の惨殺された写真とか普通に載ってたんですよ。ノストラダムスの大予言が本当に来たら人間はこうやって死んでしまう、って色んな亡骸の写真を集めて載せてたり。潰れて死ぬとこうなる、とか。そういうのいっぱいあって。うわぁ~、ってなりながら見てましたね。

– それっていつ頃の記憶?

小六の頃とかすね。

– 小学校に入る前とかは?

見てましたよ。小さい頃からその手の週刊誌は好きでしたね。それに拍車をかけて母ちゃんの兄貴が2人いるんですけど、そのおじちゃん達が本当にもう、とんでもないスケベおやじ達で。その人達に相当鍛えられましたねw「お~い、こっち来な」つって、僕が小学校低学年の頃とか、ドリフとかのビデオがいっぱい置いてある後ろに “マドンナ” って書いてあるビデオがいっぱいあって。それが当時で言うブルーフィルム、裏ビデオだったんですね。それ見せられて「何これ、すげー!!」って言ってるのとか、そういう反応を見ておじちゃん達も喜んでたんでしょうね。
僕その頃、スーパーのチラシの裏とかに日記新聞みたいなモノを毎日書いてて、マドンナのビデオ見た感想とかも書いたりして。女性器とかの簡単なイラストとか。もちろんおじさん達は母ちゃんに怒られたりしてましたけど、おばあちゃんは「よく描けたわねえ」って褒めてくれましたね。面白かったですね、いい思い出です。

– 小さいときから文章も書くの好きなの?

好きでしたね。小学生の時、夏休みの宿題で読書感想文ってあったじゃないですか。でも読むの嫌いだから、読んだふりして自分のオリジナルで感想文だけ書いてたんすよ。それで神奈川県のトップ、三年連続で穫ったんですよw

– すげえ、神奈川県内の読書感想文で金賞ってことでしょ?!

はい。小二~小四の三年間です。それって凄いよな、って今でも思いますね。読んだ事無い本を超適当に色々、これはこう思うとか書いて、、。賞を穫ったときは怖かったすね。自分のクラスに色んな学校の先生が見に来るんですよ。「君が書いたんだね~」みたいな感じで。どんどん色んな人が来るからちょっと焦っちゃって、、もう書くの止めようって思うじゃないですか。でもやっぱり次の年も、本読むの嫌いなんで同じようにやっちゃうんです。

– え?凄くない?!自分の学校で、とかじゃないし、市町村レベルでもなく神奈川県での3年連続で金賞だもんねw

はい。あと小学校の時の卒業文集、大人になってからでも自分の読むと、何て面白い文章書くヤツなんだって思いましたね。スケート教室行った思い出を書いてるんですけど、先生のパンツが見えそうで見えないとか、そんな事書いてました。

– 卒業文集で視点がエロなんだw えめ君にとってのエロって?

自分にしか分からないエロさって凄いトクした気分になるんですよ。僕、カワイイ物が大好きなんですけど、エロいのにもカワイイ物にも共通して言える事は、発信してる側が「ほ~ら、凄いでしょう?!」っていう狙ってアプローチしてるのは、あんまりお宝感が無くって興味ないんです。自分が見つけたいんですよ、その人の中の前面に出してないエロい部分を。
例えば自分と同じくらいの年齢で喫茶店の隅に座ってる地味な女性とか、ああいう人もやる事やってんだろうな~、とか考えると興奮するんですよ。着飾る訳でもなく色気を出す訳でもなく大人になった様な女性って、独特な雰囲気があるんですよ。そういう人が鳥居の前でスッポンポンでピースしてるのを旦那が写真撮って、みたいなシチュエーションを想像するとドキドキするんですよねw

– 今回愛車にまたがるえめ君を撮影させてもらったんだけど、バイクもかなり好きだよね?

バイク好きですね。車も好きですけど、高いし、、バイクの方が好きです。乗るっていう事よりもいじったりとかする過程が好きなんですよ。一人で無心になってどうしようかなぁって、考えたりとか。

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– 今回のフライヤーで乗ってるあれは何て言うバイクなの?

あれはKawasakiのW650っていうバイクで、2気筒のバーチカルツインっていうタイプのエンジンなんですけど。昔はハーレーのXLCH900っていうの乗ってて、故障ばっかりで部品取り寄せるのにも時間かかるし、結局手放しちゃって。それからもやっぱずっとバイク乗りたいな、って思ってて、半年ぐらい前に買いました。

– 今のバイクはどう?

面白いですね、イジリがいがあります。ほとんどノーマルの状態からだいぶ変わったと思います。あんまり人気ない車種なんで車体の値段も安いんですよ。

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– 誰もやってなさそうなバイクを自分なりに改造していくんだ、天の邪鬼な感じでいいねw

あんなカッコいいエンジンなのに人気無いんですよね。あのバイクに合うカスタムパーツもあんまり出てないんですよ。だから合わないパーツとかでもヤフオクで落札して削ったり溶接したりしてます。そうすれば千円とかで済むんで。
綺麗なパーツとかヘルメットにウェザリング塗装で古くなった塗膜を表現したり、、ヘッドライトもヤスリでこすって古っぽくしたり、、。

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– 経年の劣化した雰囲気へのこだわり凄いな〜。ひび割れてるトコとかも、あえてそれも表現するっていう。新品だったヘルメットの汚れ塗装も絶妙なさじ加減だねw 錆とかみて興奮する?

興奮までしないですけど錆びた看板とか、ココまでなるんだみたいな。じっと見ちゃいますよね。

– 今現在、バイクの改造に関して取り組んでいる部分を教えて。

今取り組んでいるのはハンドルクラッチをフットクラッチに変えて、フットギアを手でギアを変えられるようにレバー付けるのをやってます。

– え?なんかややこしい事してるね?!自分でそのバイクに合うように設計して、溶接したり色々しながらパーツを作って取り付けるんでしょ?

はい。ずっと考えてるんですよ。どうしようかな~??って。モンキーレンチをパーツの一部として流用したりとか、、色々考えながらやってます。
全てを自分で改造するプライベートビルダーとして、日本で一番ヤバいW650を作りたいんですよ。カネ君にもタンクに描いてもらいたいし、エンジンの形も変えようと思てて、、最終形態まで言ったらとんでもないバイクになると思ってます。
だからって別にチヤホヤされたいとか、有名になりたいって訳ではないんですけどね。

– えめ君的にピークアワーってワードから何を連想する?

朝4時過ぎに起きてラジオ流してお弁当作ったりして一日が始まるんですよ。最近だと4時過ぎるとちょっと明るくなってくるじゃないですか。で、ベランダから通り眺めて人っ子一人いなくて、車も走ってなくて、、「今眺めてる景色は全部僕の物だ!」みたいな。それですかね。
あと、家に神棚を置き始めたんですよ。神棚に飾る榊(さかき)って葉っぱ、あるじゃないですか。いつも嫁さんが買ってきてくれて、それを二等分して飾ってくれてるんですけど、この前自分で分けてみたんですよね。僕、まとまってる物を等分するのが凄い苦手で。例えばチャーハンとか作っても、盛分けは出来ないからやって!みたいな。今回、榊でも等分ができねー!!みたいになって。嫁に「小さいのは小さいの、大きいのは大きいので分けていけばいいんだよ」って言われて。それでやったら自分で分けられたんですよ。それだけの事なんですけど、榊を両手で掲げて「ワ~イ!!出来た~!!」って部屋を走り回ったんです、凄い興奮しちゃってw 嫁がまたそこで「オリンポスみたいだね」って、ギリシャの神話みたいな。それで更に「ワーイ!!僕は神様だ!!」ってなっちゃって。その時は自分でも興奮しすぎて危ないって思いましたねw つい先日なんですけど。

– 仲が良さそうでいいね~w

はい。嫁が笑ってくれたのが一番良かったですね。何やってんだか、、。

今日は話盛りだくさんで面白かったよ、ありがとう~!今回描いてもらったイラストフライヤーもトゥービーコンテニュードだしね、次回も楽しみにしていますよ!よろしく~!!(握手)

 

深みあり危ないよ!!

 

CNER INTERVIEW

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本日よりいよいよ師走突入!今回登場するのは、グラフィティライターとして街を眺め続け、活動を続ける”CNER” 。どこかで見かけた事がある!って人もきっといるはず、、そんな彼に、突撃ショートインタビュー!!


CNER × ST▲Y DOPE

<細字 / カネちゃん>
– タグネームを伺ってよろしいですか?

<太字 / CNER>
“CNER” です。

– 何で “CNER” なの?

当時まだ高校だった頃に、つるんで遊んでた友達が付けてくれたんですよね。

– その頃からグラフィティを描き始めたの?

2005年くらいですね。その時はまだ中学生で何もよく解らないで描いてて、、色々知り始めてはまってからは、あちこち現場に出向いて情報やら収集してましたね。模索期間っていうか、、。高2くらいから “CN” って描き始めた感じです。

– そこから本格的に火が付き始めてきたんだ?

そうっすね。その頃につるみ始めたヤツがいて。そいつの存在はでかいですね。ボムのやり方とか見せ方とか、入り口開いてくれたっすね。そいつはタメ歳だったし、話もしやすくて。お互い情報やら交換したりとか。その後につるみ始めたヤツは車も持ってて、みんなであちこち行ってボムしまくったりしてたすね。

– 俺も行く先々でよく目撃するよ。お!!あれ最近ぽい!!ってね。

ボミングはレスポンスがやばいっすね。”One Hit, One Kill” すね。それにハマってた時期は数年ありましたね。酒飲んでチルッてバァ~!!みたいなw

– 勢い半端なさそうだねw 今まで続けてきて、グラフィティの魅力って何?

自分がフレッシュでいられるんすよね。基本的にはフリースタイル、その場のノリで。後で見た時にその時の気とかを思い出せる様な、、グラフィティは自由だし、ぬるくないんで。馴れ合いが無いっていうか。良いも悪いも全部が自分に跳ね返ってくるから、それがいいっすね。もっと自分を高めたいすね。もっとピースも上手くなりたいし、もっと感情を作品に落とし込めたら良いなって思いますね。

– ピースとボミングって何が違うの?

時間ですかね。描くのにかけれる時間。5分で終わるスローアップと、1時間かけるピースじゃ仕上がりが違うじないですか単純に。その1時間で自分の作品を見つめ直す時間があるから、だから最近はもっとピースが描きたいすね。

– “STAY DOPE”ってワードから何を連想する?

今の自分すねw 自分のライフスタイルに照らし合わせて、結構危ないなぁって思うっすねw普段から俺の事知ってる人達には良いも悪いも含まれすぎてて、CNとSTAY DOPEってワードが合わさって2倍増しにブーストでしょうねw グラフっていうスパイスはかなり効くんで、もっと引き出しをいっぱい作っていきたいすね。

これから先も止めるとか無いし、滅びるまでやるし、、滅びてからも残る様な事がしていきたいから。そしたらフォーエバーだから。自分の輝き方、それもスタイルってあると思うんですよ。いつかワンフラッシュに変わると思うんで。

– 一番星的なw 好きな音楽とか影響を受けたモノとかは?

中島みゆき好きですね。結構節目節目で「ファイト」とか「世情」とか。状態作りに音楽は必要なんで。あとは電気グルーヴも好きすね。「フラッシュバックディスコ」ヤバいすね。生き方的にもウケるすね。プロ意識も半端無いすよね。そのバランスがヤバいなって。ふざけからのハイプなんすけど、プロ意識は高くみたいな。一見ふざけてるだけに見えるけど音楽でガッチリ結果出してるじゃないですか。目指すバランスはそこですね。情を高める時は中島みゆき、社会に対して小馬鹿にするやり方は電気グルーヴみたいな。
あと、十代の頃は日本のグラフィティマガジンをディグりまくってましたね。KAZEマガジンとかHSマガジン、DRAWAMOKとか。blustって音楽雑誌で、毎月グラフの写真が載ってるページがあって、そこだけ立ち読みしたりとかw

– 今年もそろそろ終わりだけど、今後の目標は?

年内に描きたい予定あるんで、それをこなしたいすね。来年はマッドを目指して行きたいすね!!目指す所はマッドネスすね。

– え?どういう事?w

どこまで深く行けるかっていう、興味のある事にもっと時間をかけていきたい。来年は個展もやる予定なんで、そこでも見せたいっすね。

– グラフィティを通した色々な話、ありがとうございました!!今後の活躍も楽しみにしてます。(握手)

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STAY DOPE!!

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バベちゃん INTERVEW

彼の名はバベちゃん、レップする愛車259CORSAのオーナーである。今回の
PEAK▲HOURフライヤーで、モデルとして登場してくれたバベちゃんとは?
そんな彼の考えや価値観について聞いてみました。バベショートインタビュー
それでは行ってみましょ~!!


バベちゃん × PEAK▲HOUR
<細字 / カネちゃん>

– まずは、お名前伺っていいですか?
<太字 / バベちゃん>

バベちゃんです。普段は整備の仕事しながら、愛車のコルサをいじってます。
– 愛車のコルサね。カッコいいね~!!この車種が好きなんだ!?

TOYOTA CORSA
 
今23歳なんですけど、免許とってすぐ後に色々乗りたい車はあったんすけど
その中でもこれがピンと来たんですよね。
自分の世代で乗ってる人があまりいない、っていうのが当初の一番の理由で
セダンでマニュアルもあるし人気ない分安いってのと直感でかっこいいって
思ったのもあって、総合的にコルサです。
今乗ってるのが2台目でコルサ一筋です。北米仕様でアメリカでも走ってる
のもポイントですね。
– 北米仕様って何なの?
 
ライト周りだったり色々細かい部分がアメリカの基準で出来上がった日本車
です。同じ車でも国内モデルと北米モデルは雰囲気が違う。かっこいいんす。

– バベちゃんのコルサも随所、北米化されたりしてるんだね。ベンツ感とかw
車が好きになった切っ掛けはあったの?

 
父親も爺ちゃんも車好きで。改造とかはしないですけど、ある程度の周期で
絶対に新車で買って大事に乗るんですよね。自分が小さい時もディーラーで
車のカタログとか凄い見てました。
それから中学一年の時、友達の家でその母親がEMINEM聴いてて、いいなっ
て思ったんですよね。そっからTSUTAYAで50CENTのアルバム借りたり、
色々ヒップホップ聴くようになったすね。

高校1年の時に見たCUSTOM LOWRIDINGっていう雑誌でグラフィティの
特集が載ってて、それに載ってたKANEさんの絵見てトバされたんすよ。
その後に今度はラジオでNORIKIYOさんの曲がたまたま流れてて、それも
カッコ良くて、気になってた人達が全体的に繋がって、SDPかっこいいっ!!
てなったんですよ。


バベちゃん思い出の雑誌 / CUSTOM LOW RIDING / 2006
 
– なるほど、そういう流れが今のノリに繋がるんだね。自分の車でお気に入り
のポイントは?

 
リアバンパーのタギングですね。
 
– そこなんだ~?! 前にたまたまお店で会った時に頼まれて書いたんだよね。

 
パーツ取り寄せたりなんやかんやしますけど、あれは売ってないですからね。
その時に書いたモノだし完全に1つじゃないですか。大事な部分だし自分が
乗るコルサに絶対必要な要素です。

 
– ペン一本でそりゃこちらもありがたいすね~。バベちゃんにとって車の魅力
って何?

車好きですけど、好きっ!!て言う感じではなくて、自分の体の一部みたい
な気持ちなんで、自分が風呂入るのと一緒で洗車して飯食うようにガソリン
を入れる。車は自分すね。愛車は自分す。でもまだまだです。わからない所
も多いんで。もっと一体化したいです。


– 愛車の話すると終わらなそうだねw バベちゃんはPEAK HOURって言葉から
何を連想する?
いい事でも悪い事でも極端な感じですかね。この間仕事中に車でカマ掘られて
それは逆ピークアワーでしたねw
仕事終わってプライベートでコルサに乗ってる時が最高潮、ピークアワーすね。
 
– 仕事に遊びにこれからも全力すね、今度コルサで適当に流しに行こうよ!!
ありがとうございました!!(握手)
STAY DOPE!!

 

菊地一谷 INTERVIEW

QNという名でSIMI LABのメンバーとして活動、後に脱退し公私共に紆余曲折の日々を送り
ながらも変わらずに音楽活動を続け、、今年から「菊地一谷」と改名して新たなる活動を
始めた彼に、直撃ショートインタビュー!!


<細字 / カネちゃん>
– では改めまして、、お名前を伺ってもよろしいですか?
<太字 / 菊地一谷>

ラッパー兼、トラックメイカーの菊地一谷でございます。QNという名前で活動してたんで
すけどMUTANTAINERSというクルーを今やってて、新しいメンバーが加入したりとか、、
自分も心機一転なんで菊地一谷という名前に変えてやってます。

– 「菊地一谷」は本名なんですか?
 
「一谷」は本名をもじってて、「菊地」は自分の本当の苗字ではなくて、ミュージシャンの
菊地成孔さん、女優の菊地凛子さんと音楽面でお付き合いがあるんですけど、そこから苗字の
「菊地」を自分も名乗りたいと思ったんですよ。お二人にもその事は伝えて。
– なるほど、そういう流れの構成なんですね。
 
菊地成孔さんはSIMI LABの頃から自分の音楽性をすごい評価してくれていて、この名前で
やって行く事で色々とプラスになればいいと思ってます。

– 今回のアルバム「CONCRETE CLEAN 千秋楽」は菊地一谷としての初の作品なんですね。
全体的にどんなコンセプトのアルバムなんですか?

 
今回のアルバムでまずはラッパーとしての菊地一谷を見せられればと思っていて、客演も
色んな人が入ってたら面白いかなって思ったり。コンセプトはアルバムというよりも
ミックステープみたいな事がやりたかったんです。

 
– 今回のアルバム、ジャケを開けた中の見開きの写真もインパクトありますね。
ジャスティン・ビーバーがカルバンクラインの広告でモデルやってるんですけど、それの

パロディをやろうっていう話になって。周りの人達が意見してくれる中でそうなりましたね。
自分一人じゃなかなか物事決まらないんで、みんなの意見を聞いたりして内容からデザイン
まで出来上がっていった感じです。

 
– YOUTUBEで今回のアルバムから3曲映像化してますね。特に思い入れのある曲は?
 
もちろん全てに思い入れはあるんですけど、、強いて言うならアルバム一番最後に収録の
 " SLAVE ROCK " っていう曲。今はいないMUTANTAINERSのメンバー達がいた時に
書いたリリックだったり、音楽をやめてどこかに行ってしまった仲間達に対して感じてる
想いとかが入ってるんで、レコーディングにも力が入りましたね。
MARIAがサビで歌っているように自由について歌っているんですけど、僕は仕事だったり
家庭だったり色々葛藤がある中で音楽で昇華しようというリリックを書いて。
天国と地獄みたいな、、サビとバースの違いで表現しました。
制作過程での展開も奇跡の
連続だったと思います。

 
– なるほど、改めて映像も要チェックですね!アルバム発売後はどう過ごしてるんですか?

毎日楽曲制作してますね。秋ぐらいに次のアルバムも出せるじゃないかな。
– "PEAK HOUR" という言葉から何を連想しますか?
 
太陽が沈みかけるギリギリの瞬間に空が凄い真っ赤になって明るくなる光景が目に浮かびます。
日没のイメージですね。

 
– 最近の絶頂ピークアワーなエピソードあります?良い事でも悪い事でも何でも。
 
まだまだピークアワーじゃないんで。これから先どんどんピークアワーを起こしていきたい
ですね。まだピークアワーは来てないと思っているんで。

何か自分が行動に移した時に刺激が受けられると思うので考え事したり悩んだりするよりも
やっぱり行動して何かを得る事の方がいいと思っていて。その分失敗も多いんですけど、、
その代わり成功も多いんじゃないかなと思います。
– これからがピークアワー、いいですね!!今後の活躍も楽しみにしています!!(握手)

深みあり危ないよ!!

 

菱沼彩子 INTERVIEW

今回のインタビューは、イラストレーターとして活躍している菱沼彩子さんです!!
 

<細字 / KANE>
– そもそも絵はいつ頃から描いているんですか?

<太字 / 菱沼>
絵を描くのは小さい時から大好きで小学生の時は漫画描いたり。自然な流れで
美大を目指して武蔵野美術大学に入学しました。就職に有利かなという理由で視覚伝達デザイン学科を選んだのですが入学してから全然絵が描けなくなってしまって、、。多分受験の為にデッサンをやり過ぎたせいだと思うんですけど。でも三年の時にイラストレーターの故・三嶋典東先生のイラストレーションの授業を選択したのがきっかけでまた絵が描けるようになりました。

– 武蔵美時代の重要な節目なんですね。面白い授業だったんですか?

衝動で描く!っていう方法を教わった気がします。授業では長い棒の先にペン
をくくりつけて壁に描いたりとか。
その頃は描きたいものが思いつかなかったので昔からつけていた夢日記の中から面白いものを選んで絵にしていました。BIZ MARKIEとかSNOOPとかラッパーが沢山登場するんですけどw それを先生に褒めて頂けたのがすごく嬉しくて、自信になって少しづつ描ける様になっていったと思います。
今、当時の絵を見るとタッチが先生の影響を受けているのかなと思います。夢絵日記を描くのを一年くらい続けていたら日常でも面白い絵のアイデアが出てくる様になりました。
 

「夢日記」 / 自主制作 / 2002~2003
 
 
– 卒業してからはどこかに就職したんですか?

してないです。就活もほとんどしてなかったので。卒業してから二年くらいは
タワレコのPOPをつくるバイトをしていました。その頃からフライヤーや雑誌のイラスト仕事が、ちょこっとづつですが入るようになってきましたね。
昔も今もですが友達関係から頂けるお仕事が多くて周りの人達には本当に感謝です!
 
「東京ビッチ」/ 自主制作 / 2006
 
 

“WILD STYLE” / 自主制作 / 2007
 
 
– 夢日記の登場人物しかり、HIP HOPもまた大きく影響してそうですね。

高校生の時に人間発電所(ブッダブランド)聴いたときからかな。それまでは
TRFとかコムロファミリーが大好きだったんですけど、、。当時TRFのラジオ番組を毎週聴いてたんです。DJ Kooが人間発電所流してて、それで凄いカッコいい!ってなってHIP HOPを聴くようになりました。夢中になってましたよ。最近だとSD JUNKSTAも大好きです!
 

“Summer Vacation” ZEN-LA-ROCK / CDジャケット / 2011
 
 

“HOTEL PACIFICA” LUVRAW&BTB / CDジャケット / 2012
 
 
“200%RAP” 鎮座DOPENESS&DJ UPPERCUT / CDジャケット / 2013
 
 

“Robot Rock” エレキfeat. Miku Hatsune / 配信ジャケット / 2012
 
 
– 菱沼さんの作品は独特のスタイルがあると思うんですけど、何か影響を受けたモノとかってありますか?
 
日々、色々なものから影響を受けていると思いますが、、特にこれっていうモノはないかな。仕事をやっていく中で少しづつ作風などが変わっていっている感じはしますね。相手からのリクエストや色々な制約が、自分の中の新しい可能性を引き出してくれている感じがします。
CDジャケットだったらその楽曲なくしてはそのアートワークは絶対に生まれないものだと思っています。そういう経験の積み重ねで、だんだん今の自分のスタイルが出来上がっていきつつ、変化し続けてるのかなと思います。でも元をたどると、一番影響を受けたのはHIP HOPなのかな!
 
BASS BOAT / フライヤー/2012
 
 

虎子食堂 / パンフレット / 2012
 
 

PUNYUS スカイツリー店 / 内装 / 2014
 
 
– 今回、”PE▲K HOUR” のデザインを2種類やってもらいました。制作過程でのエピソードはありますか?

すごく悩みました。シンプルにとの事だったのでそれが難しかったです。最終的
には絵を描くというより元のロゴを作り直す感じで猫文字に仕上げました!猫は大好きで良く描きますが体の曲線や柔軟性が絵のモチーフにしやすいです。文字にするのにもぴったりでした。

PE▲K HOUR / ロゴデザイン / 2014
 

これはカタめのロゴで、との事だったのでロシアアヴァンギャルドのポスターに使われて
いるような角張った文字をイメージしてつくりました。

PE▲K HOUR / ロゴデザイン / 2014
 
 
– 最近、ピークアワーな出来事は何かありましたか?

壊れて何年も放置してたi Podがいつの間にか直っていたことです!壊れた電気製品
はそっとしといてやると自然治癒する事が良くあります。あと、最近雑誌に載ってたんですけど、心を撃ち抜かれた言葉がありましたね。
(携帯画像を見せてもらう)「 意識が変わると行動が変わる。 行動が変わると習慣が変わる。 習慣が変わると人格が変わる。 人格が変わると人生が変わる。」

– 最後に、菱沼さんにとってピークアワーとは?

午後の4時、5時くらいですかね。一番集中できる時間というか、、。好きですね。
 
– ありがとうございました!!(握手)